書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

『ことばが劈かれるとき』を読みなおす 1.「はじめに」

ちくま文庫の『ことばが劈かれるとき』は、「チヨコちゃん」という一人の少女の物語から始まる。

このエピソードには、僕がこの本にのめり込んだすべての理由が詰まっている。改めて読み返してみてそう感じた。初めて読んだときにはただただ熱中していたために、感動する自分を距離をとって見ることができなかったが、今なら少しは客観的に、自分が何に感応したか語ることができると思う。

僕がこの本を、どう読み、何を思い、何を受け取ったか。

それを丁寧に一つずつ拾い上げていくのが、この「『ことばが劈かれるとき』を読みなおす」の目的だ。それはいわば、僕個人による個人的な注釈の集成である。

(そのため、ここでは竹内氏の著書の詳しい内容には踏み込まない。気になる方はぜひ本書を手に取って一度読んでみてほしい。)

___________________

 「はじめに」 

『ことばが劈かれるとき』の「はじめに」では、「チヨコちゃん」という一人の少女のエピソードが綴られている。

チヨコちゃんは声は出せるものの、ことばを話すことができなかった。療育施設の担任であるつるまき先生は、竹内敏晴のレッスンを応用した授業などを試みながら、チヨコちゃんの声をーことばを形にしようと真摯に向き合い試行錯誤する。チヨコちゃんの成長する姿や、それを見守るつるまき先生のまなざしには、読む者の心をじんと温めるものがある。それだけで涙が出そうになる。ここで語られる「物語」は、本書で竹内が自身の人生をもって歩み語ることになる「ことばが劈かれる」過程そのものだ。 

そのエピソードのなかに、T夫君という一人の男の子が出てくる。チヨコちゃんとおなじくつるまき先生の授業を受けている、クラスの中では知能の高いリーダー格の少年だ。読み書きもでき、ハキハキと喋れるT夫君なのだが、「アーーー」と声を出す稽古をいっしょにやると、どうにもくっきりした声をだすことができずにいることにつるまき先生は気づいた。

ハッキリしたこえでハキハキしゃべれるT夫君が、本気な、くっきりしたこえで“黒板を突き通す”ことがない。

いわゆるデキルほうの子が、チヨコちゃんのように“全身で集中する”ことや“自分の中からのイメージ・実感にしたがって正直にふるまう” ことがなかなかできない。

言語系の発達やペーパーテストの点の良さが必ずしも〈イメージを湧き出させ、表現する能力〉にはつながらないで、〈頭の皮〉 のところだけで考え、処理するりこうさにとどまっている。

T夫君の姿はそのまま自分自身の姿だった。

 

つづく