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書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

「からだとことばのレッスン6/12」感想

からだ エッセイ

この日のレッスンでは、ただ相手の体をほぐすだけではない動きを色々とやった。どんな?と聞かれると、表現するのがとても難しいのだけれど・・・相手の体に働きかけて、相手の体の中に流れや勢いを作り出して、相手の体を動かすんです、と言うと、ちょっとは表現できているかもしれないけれど、聞いている人には何のことだか伝わらないかもしれない。

普段のレッスンでは、体の力を抜くための、体をほぐす体操やマッサージに多くの時間が費やされる。今回のように、誰かに向かって何かをするというのは、あまり多くはないんだけれど、それをすると毎回、ああ、俺は、このためにこの場に来たのだと、そう思わないではいられなくなる。

人関わるということが、やっぱり、とても、うまくできないと感じるからだ。

 

主催者である瀬戸嶋さんが、ある参加者のからだに手を当てて、その体を動かしたりする。それをみていると、「こういうことが起こっているんだろうなぁ」と何となくわかった気になる。何が要点だとか、何がポイントだとか、そういうことを考えながら見ていることが多い。

けれど、いざ、自分でやってみる番になると、もう、どうしていいか分からない。僕の目の前には、相手の人が立っている。そこにずしんと体がある。しかもその体は、静かに、僕に触れられるのを待っている。あるいは、何も待っていないのかもしれない。いずれにせよ、自ら動こうとしているのではない人の体に相対したとき、その体をどうやって動かせばいいか、どうやって働きかければいいか、僕は本当に分からなくなる。なす術がない。手が出ない。

その時僕はいつもほんとうに怖くなる。人と向き合うとか、人に向かい合うとか、そんな言葉を口にしてみたって、結局のところ、この場で相手の体を前にしたこの自分とに何ができるのか、それだけが事実であって、それ以外には何もないのだとひしひしと感じられる。自分の中に動きや関係のイメージがあったって、そんなもの全然役に立たなくて、ただただぎこちなく、恐る恐る、相手の体に触ってみることしかできない。そうすることしかできないこの自分を、やはりひしひしと感じながら、それでも、そこを通っていかないと、潜り抜けていかないといけないんだと思いながら、とにかく、言われたとおりにやってみる。そんなことの繰り返しが、続いていく。

自分まるまるがありありと現れてしまう。自分が暴かれる。嘘をつけない。その場に現れた自分が自分なんだと認めざるを得ない。それ以外の自分はいない。そうして現れる自分の、どうしようもない弱々しさ、頼りなさ、覚束なさに、ぼくはいつもどうしようもなく恥ずかしくなる。もう、そんな自分が現れることは分かっているから、何かをする前からすでに恥ずかしさがにじみあがってくる。みんなの前に出て何かをするとなると、もう、ああ、やばいな、恥ずかしいな、やるっきゃないけど、なあ、って、思う。

でも、もう、そういう恥ずかしさを通っていかないと、どうしようもないってことも、それなりにわかっているつもりだ。ただただぼんやりと、気持ちがいいなぁ、心地いいなぁと、温かいお湯の上にたゆたっているだけでは、やっぱり、自分が更新されることがない。別に、うりぁって大きな力を出さないと、殻は壊せない、っていう訳じゃない。けど、自分の輪郭がありありと現れてきて、心がひりひりするような時間を過ごさないと、そういうひりひりするような場所に自分を立たせないと、自分が分かるってこともないし、自分が変わるってこともない。なにかしらの最前線に立たないと、新しさは生まれてこない。自分の突端に立って、自分と外との境界線に触れてみる、その外へ手を伸ばしてみる、そんな瞬間を積み上げていかないと、何も新しくならないし、何も変わらないままだ。

だから、ぼくは、そんな、ひりひりする場所に立ちたいし、自分がどうしようもなく自分であってしまう場に身を置きたいと思う。置かなくちゃいけないって思う。いけないって思った。今回のレッスンで、久々に、そんな場にこの身を置いてみて、やっぱりそういう場に立たないとだめだと思った。別に、このレッスンが、張り詰めた空気で満ちた真剣な場であるとかって訳じゃないし、僕も笑いながら、横になりながら、ゆたゆたと時を過ごしているんだけれど、それでも自分が何かをやるって時には、どうしようもなく、そんな時間を過ごしてしまうし、そんな時間を求めてもいる。自分にとってレッスンは、そういう場所としてあるし、そういう場所であってほしい。そんなことが、改めて分かった、そんなレッスンなのでした。6月12日。