書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

「からだとことばのレッスン5/28」感想

ひどく疲れていたのだった。

昨年12月に就職し、今月に入っていよいよ一人立ちとなり、担当することになった得意先の業務を一身に受け持った一週間。かなり緊張していたんだと思う。残業時間も伸びがちで、業務処理の不慣れさと不器用さに情けなさを感じながら、それでもなんとか問題なく課題をこなそうと、必死になって仕事をしていた。

体はとても正直で、水・木・金と日を経るごとに体に塗り重ねられた疲れは、土曜の朝の2,3時間の運動で抜け切るわけはなく、レッスンのパートナーに「お疲れですねぇ」と声をかけられ、「いや、お恥ずかしい」と答える僕の心は正直だった。

 

下半身をほぐしてもらって、気持ちはよかったけれど、やっぱり体の芯には疲れが残っていて、いつもほど体がスッキリ!とはならなかった。ただ、声が確かに変わっていて、お腹から太く響く音が出るのが分かる。平日に一人で行っている体操でも声は変わるけれど、それとは質の違う変化で、こんなに響く声が出ることはしばらくなかったから、その豊かな響きに驚くと同時に少し戸惑う自分がいた。

声が響くと、口にした言葉の響きは確かに人に届く。だから、何を口にしても、その声は人に届いていく。明瞭な言葉であっても、相槌であっても、僕の声の音はその場に広がって、会場にいる人たちへと響いて届く。

太く響く声が出たとき、自分と人とがその声で結び付けられるような感覚があった。声がまわりの人のもとで確かに響くというのは、声の響きを受けた人がその響きに反応し応答する可能性を劈くということで、お互いが応答し合える空間が声の響きによって生み出されることである。その応答がとり交わされる場を自らの声が作り出せること、自分と他者とがその身をさらし出し合うように関係性を取り結ぶ場を自分自身で生み出せることに、僕は瞬間おののいてしまった。

その契機を孕む自らの声は、ずっと思い描き追い求めてきたものであったのだった。

この日の僕には、その太く響く声を出し、声を、言葉を人に届けることは、小さなハードルを越えるような労力を要する作業であった。その労力は、響く声にのせて口にする言葉によって、これまでとは質の異なるメッセージが相手に届いていることを確かに感じさせてくれた。と同時に、それ以前に口にしていた声の、人と関係性を取り結ぼうとする力の、その明らかな弱さを確かに感じさせるものでもあった。人に声を届けられるこの体と、届いているかどうかなど気にも留められなかったこれまでの体とが、はっきりと二色に分かれた。

その時、僕の体にじわじわと広がっていったのは、悔しいという感情だった。

 別の日のレッスンでは、体がほぐされたとたん、声がすいすい出るようになって、視野が広がり、いつでも目の前の人に向かっていける自由さをこの身に羽織ることができたこともある。その軽々しさは、ずぶ濡れのスニーカーで歩く雨の道から、からっと乾いた草原をはだしで駆けていくような身軽さで、その解放感に出会う度、僕はいつも、これが僕の帰る場所だ、と思った。

どんなに窮屈な体でも、疲れ切った体でも、しばらくの休みを取って、時間をかけてほぐしていけば、この身軽さにたどり着ける。事実として、この身軽さは、誰の身にも備わっているのだと言える。

この日のレッスンで僕が出会った僕の体は、ここ最近の日々の疲れや緊張を背負い込んだ体であったようだった。その体が人と関係性を取り結ぼうとしたとき、ある種の弱さを僕は感じた。

この日の体が僕の体のすべてではない。来週レッスンに出てみれば、また軽々と声を解き放てるようになるかもしれないし、その可能性は十分にある。だからこの日の体のあり方だけを見て、自分に失望したりする必要はない。

それでも、自由さと身軽さを内に秘めた体を持ちながらも、背負い込んだ荷物の重さにバランスを崩してしまい、絞めついた体で日々を過ごしてしまっている。窮屈な方へ体をじわじわと追い込む日々を過ごしてしまっている。そのまぎれもない現実に、何も感じないわけにはいかなかった。

日々考える。どうすればこの身は変わるだろうか、この心は変わるだろうか。日々行う、こうすれば体は柔らかくなるだろうか、息は深くなるだろうか。その思い、行動。何かになんとかしがみつこうとするように、必死になって、前へ前へと歩みを進めようとする僕の日常を、一気に振り切ってレッスンは僕を、一人では思い描けもしない場所まで連れ去っていって、最も大切で本質的な問いを、僕の目の前に差し出してくる。向き合うべき課題がありありと肌身に感じられる。

この体が今どこに立っているのか。

そこには、どんなに速く走っても手にはできないのっぴきならなさがある。

たぶん、そういうことなのだと思う。悔しさを感じたというのは。

 

おわり