書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

かたち ―レッスン感想

かたち、について色々考えている。

かたちってなんだろう?

 

レッスンでからだをほぐすと、他人に対して自分がいる、という感じが日常のそれとは変わっていって、とても自然な形で、力を抜いて人の前に座ることができるようになる。感想を言うときも、誰に言うともなく言いたいことを言ったりするし、逆に誰かの感想を聞く時には、実はほとんど聞いていなかったりする(笑)。これは興味がないとかそういうわけじゃなくて、その人がしゃべっていることを、「その人」という他人がしゃべっていることとして、「その人とは別の人である自分」がそれを聞き受け止めるといったような、「誰か」と「誰か」の個別の二人のあいだの「話す・聞く」といった構図が溶けてなくなってしまっているんです。僕だけがそうなのかもしれないけど(笑)、でもそのときというのは、誰かがしゃべってる言葉は、その人の話す言葉なんだけど、同時に自分の言葉でもあるような感じがしていて、聞いていなくても、いや聞いてはいるんだけど、その言葉の一つ一つに特別な注意を払わなくても、言いたいこととか表現してることはわかるというか、ただ声を聴いているだけでもう既に共有しているような、そんな感覚に毎回包まれるんです。

そんなふわふわした感覚に包まれた僕は、レッスンの途中から、ほかの人がほぐされているのを見るとき、たいてい寝転がってふにゃぁーとなりながら見てたりする(笑)。座っているのがなんだか疲れるなーと感じたとたんに、寝転びたくなって、座布団を引き寄せ、とりあえず様子見でそれをおなかに抱えて座り、適当なタイミングで座布団を枕にして横になる。ぼーっとしながら、でも集中しながら、レッスンを受ける人の体を見ている。この時の集中は、とても集中していて、すごく気持ちがいい。きっとほかの人から見てもすごく気持ちよさそうな顔をしているんだろうなと思う。子供が美しいものに心を奪われているときのような顔(想像です)。

からだをほぐすと、子供のようになっていく自分がいる。ふだん、社会的な振る舞いを強いられているからだが、ここぞとばかりに力を抜いて、好きな格好をして、好きに動きながら、その場にいることができる。とても気持ちがよくて幸せだ。からだの力が抜けてくると、そういう、からだがしたいままの居住まいをすることができて、明確な目的とか、役割とか、そういうことを意識しなくなって、ただ、ゆったりとそこにいるという時間のなかに住むことができる。

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レッスンが終わって、普通の日常に戻っていく。次の朝。目を覚まし、窓を開け、服を着替えて一日を始める。

そのとき、たいてい、何をする気にもなれない(笑)。やる気がないというんじゃなくて、「何か」をする気になれない、具体的なことが思い浮かばないからだになっている。からだにはエネルギーがあるし、いつでも飛び立てるくらい柔らかくほぐされているのに、じゃあ何をするかというと、なんだろう、よくわかんなくて、ちょっと戸惑ってしまう。洗濯とか皿洗いとか、そういういつもやっていることをしてもいいんだけど、そういうことをするのはちょっと違う感じがする。それらは僕のからだにとっては、日常生活を送る上での「義務」のひとつであって、からだのうちから出てくる欲求による動きや行動ではないから、やりたい!とは感じられないし、実際レッスンの翌日はたいていやらない(笑)

からだは何かを生み出す自由さを湛えているのだけれど、それを何に、どう、表現したらいいか分からない。そこに明確な「かたち」がない。このからだをどんな「かたち」に運んでいけばよいのだろう?その「かたち」は、どのようにして選びとられていくのだろう?ゆらされ、ほぐされ、輪郭のほどけて自由になったこのからだが、からだ自身の力によってある「かたち」に形作られるのは、どういう風な道のりをたどっていったところにあるものなんだろう?

そういう、自分をつくるレッスン、生み出すレッスンをいつかしてみたい。

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僕にとって「かたちあるもの」の最たるもののひとつが「ことば」である。

書きことば、話しことば、歌い声、いろんなことば。「ことば」をひとつ口にするというのは、ある「ことば」という「かたち」をそこに生み出してみること、形作ってみることだ。

解きほぐされた僕のからだからは、なかなか「これ」という「ことば」が生まれてこない。言葉自体はいつも通りといえばいつも通りに、使おうと思えば使えるんだけど、それは洗濯や皿洗いと同じように、自分のからだの中から生まれてきた感じがしないものとしてある。だからその言葉に身を任せることができないし、どんなに喋ってもなんだか自分じゃないような感じがしてしまう。だからレッスンの後の日はしばしば口数が少なくなっている。

もっと、自分の「ことば」を口にしたいと思うけれど、さて一体、どうやったらそういう「ことば」が出てくるんだろう?どんな「かたち」を僕は「ことば」で作り出したいんだろう?どうやったらそんな風にして自分を表現するような「ことば」を口にできるんだろう?

確かに僕の中には「思い」はある。でもその「思い」自体、もともとかたちがあるものではなくて、そのあやふやな感触を、ただそこにある流れみたいなものを、うまいこと「かたち」にして、「ことば」にして、相手に伝えるのは難しいことだ。ようやくその感触に「ことば」を与えられたとき、「思い」にはじめて形が与えられて、「この「思い」はこんな「かたち」をしていたんだ」ときっと思うんだろう。

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ふつう、日常で触れる、動きや言葉を含めた「形」というものには、輪郭があって、境界線がある。

ひとつひとつの言葉がそれぞれ境界線で区切られている。また、一人一人が発する言葉も、その内容が同じでも、別の人の言葉だとして境界線が引かれる。

そういう境界線を、一度取り外してみる。からだをほぐすと、ほら、いともかんたんに。

そうして、一度どんな動きもことばも溶けあわしておいてから、再び「かたち」を形作ろうとしてみる。「境界線をもたない「かたち」」を目指してみる。

同じ言葉を声にするのでも、相手のなかにたしかな「かたち」を呼び起こす声というものがある。そのことはレッスンや竹内敏晴のことば(本)が教えてくれた。そんな声とことばは、声を出す人からこちらにやってくるけれど、聞こえるときにはその声はもう自分の中に響いている。そのとき相手と自分の境目はなくなって、声でひとつになっているような、音で重なり合っているような、つながっているような感じになる。

このとき、声を通して、確かな「かたち」が僕に届けられる。僕は確かな「かたち」を、声を出す人からしっかりと受け取ることができる。

そんなときの、この「かたち」あるものには、境界線がないんじゃないかという気がする。何かと区切られている「形」があるのではなくて、ただここに、とある「かたち」がある。そんな風な「かたち」の作られ方があるんじゃないかという気がする。

「境界線のない「かたち」」。そんなものがあるのかどうかわからない。でもあるような気がする。

そうなるとますます「かたち」ってなんだろう?って思えてくる。「かたち」ってなんだろう?

届く言葉、伝わる声、魅せる動き。そこにある「かたち」に、少しずつ近づいて行って、いつか自分の「思い」を、たとえ一瞬のきらめきの中だけであっても、表現してみたい。

 

おわり