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書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

「からだとことばのレッスン3/13」感想

からだ エッセイ

3月13日、「からだとことばのレッスン」に参加してきました。その感想です。

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レッスンでは、しきりに「力を抜く」ということが言われる。

だけど、力は抜こうとして抜けるものじゃない。というのも、普段の僕たちは自分の体に力が入っていることを意識することができないからだ。

頭や意識を使って手や足に力を入れたり抜いたりするのとは違う、「体に力が入ってしまっている」という、力み。それをほぐすことが、このレッスンの大きな目的の一つとなっている。

誰かの体がほぐされているのを見るのは、同時にその人の体に力が入っていたことを発見する時間でもある。それを見て僕たちは、自分自身の体にも無意識のうちに力が入っていたことに気づき始める。実際に自分がほぐされる場面になると、その力みをよりはっきりと自覚することになる。

僕自身も、自分の体のいろんなところに力が入っていたと気づいた。日常生活でも気づけるような、肩とか背中とかだけじゃなく、腕だったり脇腹だったり、あらゆるところが、あらゆる仕方で、緊張していたのだと気づかされた。

体は嘘をつかない。特にこのワークショップではそうだ。

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前回もそうだったのだけれど、先生にからだをほぐしてもらった後の、僕の体の姿勢を見て、先生や参加者の方に「立ち姿がきれい」と言ってもらった。

素直にうれしい。

と同時に、先生に「きれいだけど、きれいなだけでちょっと物足りなくて、体の内側のエネルギーみたいなものがあまり感じられない」とも言われた。

これは僕の心に突き刺さってきた。

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見た目、というものを、みなさんはどんなふうに意識しているのだろうか?

今回のレッスンで「見た目はきれいだけど・・・」と言われたとき、僕の中ではひとつ、つじつまの合うようなところがあった。

きっと僕は、周りからどう見られているかをとても気にしている。どう思われているかではなく、どう「見えて」いるか。姿かたちや容姿が、見た目が、どう映っているか。それをすごく気にしている。

僕は昔、外見的なコンプレックスをとても強く感じていた時期があった。というかつい最近までそうだった。僕の容姿には、一目見れば「そのことですね」とすぐわかるような特徴があって、そのことで僕はずいぶん悩んでいた。それが僕の人生に強く影響していることは否定することができない。ただ、今となってはそのことで思い悩むことは本当に少なくなっているし、「自分がコンプレックスを抱えている」という意識はほとんどない。「自分の容姿にコンプレックスを感じる自分」はもう完全に過去のものになっている。と思っている。

でも、今回のレッスンで気がついた。僕は見た目をとても気にしている。「人に見られる自分の外見」をとても気にかけている。それは自分のコンプレックスの部分が気になっているのではない。自分そのものが、どうやったらきれいに見られるか、格好良く見られるか、そのことをずっと気にしている。悪いように見られたくない。「良い見た目」でいたい。そう思っている。

だから僕は、電車の中にいてもシャキッと背筋を伸ばそうとするし、街を歩く時でも腕の振り方を意識するし、人の前で体の力を緩めた姿を見せたくはないと思っている。カフェでゆっくり本を読んでいるようなときも、リラックスしている風な姿勢を”とって”いる。つまり、「リラックスしている自分」を周りに見せている。それはリラックスしているのではなく、「格好良くリラックスしている自分」に見えるように姿勢やしぐさを意識しているということだ。

いつの間にか、そういう振る舞いをすることが自分の中で当たり前になっていた。

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きれいに見られたい。悪く見られたくない。自分の「見た目」をすごく気にする。その結果、「姿勢がいいですね」と言われることは本当に多くなった。レッスンでも「背筋がきれいに伸びている」と言ってもらえた。だから、自分の「きれいに見せよう」という意識と試みは成功しているといえる。

でも、その僕の「見た目」を意識した体は、中身が空っぽな体だった。見られることばかりを意識して、自分がどう動くかがおろそかになっていた。ぱっと見た感じは、きれいだったり落ち着いていたりしていても、その内側に動くものがなくて、僕と対面した人が何か物足りなく思うことがあっただろう、と今では思う。

例えば、レッスンの時に相手(別の参加者)と向かい合ったとき、どうしていいかわからなくなることがある。今回のレッスンでも、相手と自分とが向かい合って、お互い自由に動いてみるという「出会いのレッスン」をやったけれど、相手がこちらに元気よく歩み寄ってきてくれたのに対して、僕はそれにうまく応えることができなかった。

その時の僕は、自分を良く見せようとする自分と、そうではない生の自分との間で身動きが取れなくなっていた。格好良く見せたい自分が格好良く見えるような動きをしようとする。したいと思う。でもそういう動きによって相手との関係を作ろうとすることはこのレッスンでは求められない。何よりそんな取り繕った動きよりも、もっと生の動きをしたいと自分の体が言っている。でも、そこで僕は生の自分になることをどうしても怖いと思ってしまう。なすがままに動こうとは思うのだけれど、闇の中に自ら足を踏み入れていくような感じがして、どうしても足を踏み出すことができない。体が固まる。動くことができない。でも相手はやってくる。どうしよう。まず距離を取ろう。様子を見て、間合いを取って、ちょっと待って、まだ来ないで、ゆっくり落ち着いてから、少しずつそっちへ向かっていくから、などと思っている間に相手の方では熱が冷め、もう関係を取り結ぼうとしてくれない。こちらから相手に歩み寄ろうとしても、今度は相手の方が寄せ付けてくれない。関係がそこにはない。つながっていない。さみしい。つらい。くやしくて、かなしい。

相手がこっちへやって来た時には、どうしていいか分からずに怖さを感じる一方で、この人が自分のもとに来てくれるんだ!という喜びが沸き上がってきている。それなのに、その喜びを表現することができず、相手に伝えることもできなくて、結果的に冷たく当たってしまうことになってしまって、とても悲しい気持ちになる。相手にも本当に申し訳なくて、さらに悲しく思えてくる。そこで僕は、さっきは冷たく当たってしまったけれど、本当はそうじゃないんだよ、って言いたくなるのだけれど、相手との関係を結べなかったことが事実として残ってしまっているから、その事実を前にして僕は何も言うことができない。しかもそのあと感想を聞かれたときには、動けなかった自分を肯定するような、自分は悪くないとでも言うかのような感想を何とはなしに口にしてしまっている。その感想が再び相手を悲しい気持ちにさせてしまったことだろうと思って、また悲しい気持ちになってくる。「出会いのレッスン」の一連の流れが終わった後でも、相手との関係がずっと途切れたままになっているような感じがする。

あれは結構つらかった。

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体の力を抜いて立ってみることは、楽しくて、面白くて、いろんな発見がある。でも、体の力を抜いた姿で人前に出るなんてことは、自分ではちょっと考えられない。そんなことできない、って思う。思ってしまう。

「いやでも、それってもしかしたら変な考え方かもしれない。人前に出るときに自分の見られ方を常に意識して、歩き方や腕の振り方を常に気にしているって普通のことではないのかもしれない。」って、レッスンの翌日になってようやく思い始めたけれど、実際、周りの人にどう見えているかを気にしないで買い物したりすることなんてできるのか?って疑っている自分がいる。ほんとに?ほんとにみんな気にしてないの?って思う。

けどレッスンを通して、きっと多くの人はそんなこと気にしてないんだろうなとも思うようになった。

体に力が入っているというのは、力が入って“しまって”いるということだ。その“力み”に対して、自分の中にどんな合理性や正当性があったとしても、それはやっぱり“力み”でしかない。そう思えるようになったら、自分の「格好良く見られたい」という思いも、自分に特有の“力み”なんだろうなって思えるようになってきた。

そんな風に自分を見つめることになるなんて思ってもいなかった。人に見られることがストレスになることはもうないと思っていたし、むしろそれを楽しんでいるとさえ思っていた。けれど、自分の外見に対する強い意識は、どうしようもなく自分を縛りつけていて、僕という人間を力強く形作っていた。僕にとってかつて最も切実な現実であったものが、今もなお最も切実であり続けているということに気づかされた。

自分と出会うというのは、こういうことを言うのかもしれない。

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 「人からどう見えるかを気にしない」

自分にとって、この言葉はどれほどの意味をもつものであるのか。

それは僕自身にとっても考えさせられることだ。

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"かの女は、かなり長いことどぎまぎしていて、何度もレッスンがくり返されました。しかし、 ある瞬間ふっと静かになった。少し肩がもじもじしたけれど、そのまま動かなくなり、やがてフウッっと息が抜けるようにからだが柔らかくなった。かの女はやっと今までまとっていたものを捨て、弱い自分に出会いそれを認めたようです。かの女はやっと出発点に立った。

つまり、性格とか個人差とかがすべて白紙になった地点に立ったといってもいい。それが「自分」。"

『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想」2』p294-295

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長々とお読みいただきありがとうございました。

 

おわり