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書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

『からだが語る物語の世界』6/19感想

この日は、いつもよりちょっと贅沢な、特別講座『からだが語る物語の世界』(からだとこえとことばのWS)に参加してきました。

普段のワークショップでは、体をほぐしたり動かしたりするのが主ですが、この特別講座では時間を二倍以上とって、からだと共にある言葉の世界に触れてみるべく、宮沢賢治の童謡を朗読しました。取り扱った作品は『かしはばやしの夜』です。

 

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それは、言葉との新たな出会いを果たした瞬間であった、なんて風に言ってみたくなるような時間でした。

けれど、本当に悔しいけれど、このレッスンで起きた出来事を、僕は言葉にすることができない。

どう言葉にしようとしても、何かがずれてしまい、何かがこぼれてしまう。言葉にすればするほど、まったく別の体験と同じような表現になってしまって、特別な感覚を誰かと共有したり未来の自分の為に書き残しておくために書いていたはずなのに、いつのまにか書き残す意味のない文章ができあがってしまう。ただありのままに描くことや、似たようなほかの体験と比較しながら説明することでは、支えきれず包み切れない何かがここにはあって、そして僕はそれを「その何か」としか言えないまま、しばらく時間が経ってしまった。

そんな、「言葉では直接触れることのできない」体験が、そんな体験であるからこその生々しい現実感をもって、僕の中に眠っている。

 

瀬戸嶋さんがこんな文章をブログに書かれていた。

朗読のレッスンで僕が体験したこと、そのすべてがここに書かれているように思えてならない。瀬戸嶋さんのブログを読み始めたときから、読み終えるときまで、僕はずっと感嘆のため息をもらしながら、なぜかとても悔しい気持ちを感じていた。

瀬戸嶋さんの文章を読むと、そこに書かれていることがどんなことなのかが、手に取るように分かる。レッスンに参加した他の参加者たちもきっとそうだろう。過去に同じようなレッスンに参加した人や、また同じような体験をしたことがある人にも、何か感じるものがあるに違いない。それは、その文章を読む人たちの中にある「ある体験」を、瀬戸嶋さんが正確に言葉にしているから起こることだ。

僕がした体験も同じものだ。それは僕の中に確かにある。その「体験」を、普段の、言葉を話したりする行為と比較しながら、「ここが違う」「ここが異なる」と言ってみることは、できないことではないだろう。けれど、そういう説明の仕方をしても、その「体験」をしたことのない人にとっては、何のことだか分からないだろうし、それを実際に体験した人にとっては、いささか冗舌に過ぎる興のない文章になってしまう気がしてならない。だから、レッスンでの出来事を言葉にするたびに、何かが違う、何かがずれていると感じて、書いては消し、書いては消しを繰り返していた。

というか、このレッスンで朗読をしているときの「僕」というのは、実はもういないのだ。その時にははっきり感じられた感覚も、今となってはもう遠い風景のようにかすんでしまっていて、あの時の自分とこの今の自分との間に、一本の線がはっきりと引かれている。朗読をしている時にだけ立ち現われる「私」があって、朗読をしている時にだけ感じられる世界がある。朗読が終わり、いつもの時間の流れに戻った時、朗読をしていた時の感覚というのは、まるでついさっきまで見ていた夢のなかでの感情のように、確かにそこにあったはずなのにもうどこにも掴むことのできない、独特のぼんやりさに包まれてしまっている。そのぼんやりとしたものに形を与えようとしても、どうやったってしっくりこない。それはきっと、元々かたちのあるようなものではないから、うまくいかないということなのだろう。

「かしはばやしの夜」を朗読している時というのは、今のような仕方で言葉を使っている時とは違った言葉の使い方(口にしかた)をしているのだろう。それは、何かを語ろうとか、説明しようとか、そういう意図があるのではない言葉の使い方だ。僕たちがあの時していたことは、目の前の用紙に印字された宮沢賢治の童謡の言葉を、その言葉の通りに声に出す、ただただ言葉を声にする、本当にそれだけだった。

その、本当にそれだけのことをした時、何が起こるか。

僕たちは普段、言葉を口にするときには、その声にイントネーションや抑揚をつけることで、その言葉の字義的な意味以上のものを相手に伝えることができることを知っている。同じ言葉でも、その言い方を変えることで、その言葉以上のものを表現し、それを相手に感じさせることができることを知っている。

けれど、この朗読のレッスンではそういうことは考えない。なぜならそのイントネーションや抑揚というのは、実は、目の前に印字された言葉そのものに既に詰まっているものだからだ。正確に言うと、宮沢賢治の書いた言葉そのものをただその通りに読もうとし、読み手がまさにその通りに読んだ時の声には、不思議なことではあるが、自然と、その言葉に合った声色や声調が含まれているのである。そしてそれは、読み手があらかじめその言葉に見出した情景や感情を声の音色として具現化したものでは決してない。その言葉をそこにある通りにまさに読み切った時に初めて現れる、その言葉と読む者との関係性の間に生まれた、個性的でありかつ普遍的な、言葉そのものであるような「響き」が生成されるのだ。

その「響き」の音色は、読み手と聞き手双方にとって新鮮なものだ。全く予期していない音がそこに現れる。ただしこれは、「ただある言葉を実直に読んだとき、その言葉に最もふさわしい声でその言葉を口にすることができる」という話では決してない。ただそこにある言葉を声にする、ということをしたとき、そこに現れる声というのは、ほんとうに、読む人(のからだ)によって様々だし、また、読み手がその言葉へ向かう強度のようなものがどれだけ高まっているかや、読み手がその言葉に(その言葉の主として)どれだけのものを賭けているかにも、声の音色は大きく左右される。それはつまり、「目の前の言葉をただ読む」と言う時のこの「ただ」という言葉のなかに、実は、濃淡や温冷、ふくらみやちぢまりといったものがあるということだ。

その「ただ」に含まれる豊富な可能性を支えるのは、読み手の「からだ」であり、またその「からだ」と「言葉」との関係である。賢治が書いた言葉を読み手の「からだ」が受け取った時、そこに何かが生じ、何かが起きる。そのうごめきやさざなみを、「からだ」自身が声にして朗々と吐き出した時、「からだ」に支えられた「言葉=声」が、確かな質感を伴って空間に充満していく。その質感の、質感らしさ、質感としての手触りの確かさがはっきりしていると、その言葉がありありとそこにあるように感じられる。その言葉の字義的な意味とは関係なく、その言葉が深く体にしみこんできて、意味抜きにしてその言葉が分かってしまうような感覚に浸される。それはまるで、物理学の授業で習う波の方程式など知らなくても、暑い日差しに刺されながら浮き輪に抱えられて真夏の海の表面をゆたゆたと揺れているときに、まるで自分が波になったような感覚に包まれ、波のすべてを今まさに感じ取っているような心持になるときのような、知る者と知られる者とが分けられることなく混然一体となったときのあの感覚のようである。声に触れられるというのは、話された言葉の意味が自分にとってかけがえのないものであるから起こるということではなく、言葉を乗り物とした声がその響と音色をもってして、聞く者自身をその響きと音色そのものに変成させてしまうときに、聞き手がふと、自分がまるでその声(音)そのものにでもなってしまったかのように感じられるその瞬間のことを言うのではないかと思う。

そんな風にして言葉を語ることを、語る者の感覚から言葉にしようとすると、瀬戸嶋さんが言うような「「ことば」に「からだ」を明け渡す」という表現になる。言葉を語る方も、言葉そのものになっているような感覚なのだ。語る者と聞く者という構図自体は、確かに傍から見ればあるけれども、それは“傍から見て”いるからあるのであって、その言葉を交し合う関係性の中にいれば、そんな構図は意識されることがない。自分自身もがまるで言葉そのものになったかのようにして言葉を語るときには、その人は傍観者になることはできず、一つの語りや声にいやおうなく反応することになる。その反応の道筋が、宮沢賢治の童話として仮構的に設定されていて、参加者たちはその仮のレールに乗っかることで、安心して言葉の世界・声の世界に浸りきることができる。目の前に次に口に出す言葉が用意されているからこそ、余計な物思いや魂胆を抱く必要なく、ただ言葉の世界に入っていける、言葉に身を預けることができる。そうして、言葉と物語とを信頼してその中に飛び込んでみると、ふと、自分が輪郭なくぼんやりと宙に浮かぶ仄明るい光の玉にでもなったように、自由自在に声や言葉を響き放てることに気づく。こうなったらもうこっちのものだ。あとはもう自由に遊ぶだけ。用意された言葉を、その言葉の通りに、演じてみせてやればいい。

そう、演じてみせてやればいい。演じて見せてやればいいのだ。そんな、肩の力の抜けた言葉を口にできるのは、あのとき、僕の肩の力が抜けていたからだろうし、そんな自信たっぷりな言葉を口にできるのは、自分を疑うとか評価を恐れるとかがまったく消え去ていたからだろうと思う。そういうことは、べつに、何かすごい経験を積み重ねたり、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきたり、特別な才能が与えられていたりするから手に入れられるものではない。そっとこのからだに触れられて、すっと力が抜けて、なんだか気が軽くなったくらいの調子で、いつもよりちょっと深めの集中をして、ちょっと大胆な冒険をしてみると、自分をはみ出すことは案外たやすくできる。あとは目の前に敷かれたレールに乗っかって、レールに触れることを楽しむように自由奔放にしていれば、終着駅に着くまでのあいだ、踊れちゃうんだな、人ってものは。

まぁ、そんなことが実際あったとかなかったとか、そういうことはやっぱり、実際に体験してみて確かめてみて下さいと言うしかないんだけれどもね。

でも、これだけは言える。楽しいから来てごらんよ、と。

 

おわり。