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書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

「声が見える」と柔らかさ

エッセイ

瀬戸嶋さんは、「声が見える」とよく言われる。
声は、ふつう、見えない。「ほかの人も見えているんだろうと思ったらそうでなくて驚いた」という、いやこっちが驚きますわ感満載のエピソードももう4回くらい聞いた。
僕にも声は見えないが、何となく「見える」ような気もする。瀬戸嶋さんや竹内敏晴氏がそう言うなら、僕にだって(誰にだって)「見える」のだろうと思うし、そう思って人の声を聞いてみると、何となく声それぞれに感触の違いのようなものがあるように思えてくる。その微妙な感触の違いは、「見える」という程のことではないけれど、そんなほのかな感触もきっと信頼していいのだろうという、背中を支えてもらっているような感じが、瀬戸嶋さんと話しているときにはある。


思えば僕も、近いような感覚を持ったことがあった。
大学時代、1年半ほどの間、「初動負荷トレーニング」というトレーニングをしていた。メジャーで活躍するイチロー選手が長年行っていることでも有名なそれは、一言でいうと「柔らかくしなやかな体をつくる」トレーニングで、実際それをするうちに、体は柔らかくなり、眠りは深くなり、筋肉痛になることもほとんどなくなった。
その頃の僕は、人の体が「見えて」いたと思う。例えば歩いている人を見ると、「あ、この人は腰に負担がかかっているな」とか「肩の前の方をほぐすと良くなるな」とかが「見える」。弟が出場していた高校野球を見に行った時には、「この選手は高めのボールを左中間に弾き返して柵越えにはならないけどツーベースを良く打つタイプの選手でしょ」と言ってみたらそうだったりもした。当時の僕は、人の体の「癖」が一目見ただけで感じ取れてしまうという感じだった。
しかし面白いことに、そのトレーニングをやめてしばらく経つと、人の体が全く「見えなく」なった。僕の体が元に戻って、人の「体の見え方」も元に戻ったというわけである。


「体を柔らかくするトレーニング」だったのが肝なんだと思う。
「癖」というのは、つまり「偏り」である。体にとっての「偏り」とは「力み」だ。体がほぐれていた僕は、他の人より相対的に「偏りのない体」をしていたのだと思う。そんな僕が、「偏りのある人の体」を見ると、その「偏り」が分かる。
瀬戸嶋さんが「声が見える」というのも、近いものがあるのかもしれない。瀬戸嶋さんは僕たちよりもかなり柔らかい体をしているだろうし、「7年前くらいに、自分の声というものが分かった」とこの前食事をご一緒した時におっしゃっていた。瀬戸嶋さんはほかの人よりも、声の自由度がきっと広い。そこから他の人の「偏った声」を聞くと、その声の「偏り」が見える。
あるいは、精神科医の名越康文氏は、著書の中でこう語っている。

 共感能力って、…スキルとしての「共感」という考え方には、僕は少し抵抗があるんです。というのも実は、怒りを鎮めさえすれば、自然と相手の気持ちはこちらに入ってくるからです。(中略)
 僕らはいろんな物事を「教えてもらわないとわからない」と考えがちですが、実は大切なことの多くは「心が落ち着いていないとわからない」んです。心が落ち着いてさえいれば、心に怒りさえなければ、特別に教えてもらわなくてもわかるものはわかる、ということがある。
『自分を支える心の技法名越康文/医学書院

「心が落ち着いている」ことで、相手の心や気持ちが分かる。あるいは物事がスッと理解できたり自分の中に入ってきたりする。そういうことがあるのだという。(僕自身も、この著作に書かれた「心を落ち着ける方法」をここ数年実践して、確かにそうだと思えるような経験をしてきた)

力みがない人が力みのある人を見ると、その力みが分かる。
偏りがない人が偏りのある人を見ると、その偏りが見える。
より自由で柔軟な人の方が、より窮屈で強張っている人のその緊張や強張りを感じ取ることができる。
これは、多くを知ることで、一つのものの相対的な価値が分かるようになるのとはちょっと違う。多くの事柄を知ることで、そのうちのどれかに当てはめて理解することが可能になるという話ではない。自分が体験したことのないものでも、それを自分のうちに含みうるような広さや柔らかさがあれば、そのことが分かってしまうということだ。
そのような形での、何かが「分かる」ということが、人には起こる。
きっと瀬戸嶋さんはこのような地平に立って、僕たちの体や声を見ているんだろうと思う。