書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

「からだとことばのレッスン4/23」感想

この日はからだほぐしをメインでしました。

荒っぽい感想ですが良ければお読みください。

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一か月ぶりのレッスンで、誰かにからだを触れられるのもほとんどその時以来だった。4月に入ってからは自分一人で、「上体のぶらさげ(野口体操)」をやっていて、それなりにからだをほぐすことができていると感じていたのだけれど、仰向けに寝転がった僕の左足のつま先をつかまれて揺らされたとき、ああ、これは一人ではできないなと思った。揺らされる足の振動が頭の方まで伝わってくる。そのときのからだの感覚、何かに身を預けながら自分の中が動かされほぐされ整っていくような感覚は、自分一人では生み出せない。そうか、人は一人では生きられないものなんだな、と思った。

レッスンの終盤、四つん這いになって両腕と両足(膝から股関節)を柱のようにして、上体の力を抜くというのをした。胸からおなかまでが、四つの柱にぶら下げられるような感じ。その時に、瀬戸嶋さんが「上体の力を抜けば、重力で体は下へと引っ張られます。重さの力を借りてからだをほぐしていきます」といったことを述べられた。そうか、自分一人でからだをほぐすのには限界があるけれど、誰かの手を借りなくても、からだの重さと重力をうまく使えば、重さの力を使ってからだをほぐすことができるんだ。一人では生きられないとしても、一人で自分を動かすこと、変えていくことはできるんだと思った。レッスンに毎週のようには参加できない僕にとって、それは救いのような言葉であり発見だった。

レッスンの間、僕は主にいつもつけている眼鏡をはずしている。視力は裸眼で0.1以下。眼鏡をかけていると、視覚の情報が多すぎて、つまり見えすぎて、しんどく感じることがある。眼鏡をはずせばもちろん相手の顔の表情や衣服のしわなどは見えなくなるので、ぼんやりと周りを見ることになる。それくらいの方が、からだを揺らしたりするときにはちょうどいい。何も物を身に着けていないという身軽さもある。

ただ、自分が誰かのからだを揺らすときなどは、眼鏡をかけることが多い。相手がはっきりと見えないと、相手のからだを感じ取ることができないように思うからだ。瀬戸嶋さんの話を聞いていると、目で見なくても触れる手から感じられるようだけれど、今はまだ眼鏡をかけたい気持ちの方が強い。相手の表情がどう変化したとか、からだがどんな動きを見せているかとか、そういうものを感じ取る時には眼鏡をかける。もしかしたら、眼鏡をかけることで、視覚が優位に働いて、相手のからだを手のひらの感じなどを通して感じ取ることが阻害されてしまっているのかもしれない。そのあたりは次のレッスンの時にいろいろ工夫してみよう。

からだの内側、呼吸に集中するようにと言われても、ふと違うことを考えたり物思いに注意を奪われることがしばしばある。「意識はもともと、そんなふうに、散り散りになってあれこれに意識が向くように作られているのですよ」。そんな言葉が瀬戸嶋さんから飛んできて、なるほどと思った。いわく、何か別のことを考えたりしても、そのことに執着せず、またそのことを頭の中から必死に消し去ろうなどともせず、ただ再び元の集中の対象ーからだの感覚や呼吸に集中しようとすればいいとのこと。これは座禅とか瞑想と同じことだと思うけれど、意識というものをレッスンにおいてどうとらえているかを表す興味深い言葉だと思う。まあ、意識という言葉が何を想起させるかというと、それはいろいろなものがあるから、なかなか正確に伝えることは難しいですが、ちゃんと知りたいという方はぜひレッスンにいらしてください。

今回のレッスンには、初参加の方が一人参加されていて、その方に瀬戸嶋さんが語ったことばが印象に残っている。「これでいい、というのはないんです。上体のぶら下げをやっても、毎回スムーズに動けるわけじゃなくて、ああちょっと背中が張っているなとか、毎回毎回体は違ってて、どうすればいいんだろう、どう動くとバランスがとれるかなと繰り返しているうちに、ふと何かが分かったりする。繰り返し繰り返しやるというのが大事で、やっているうちにわかってくるものがあるというようなことなんですよ」(超意訳的まとめ)。

繰り返してやっているうちに、ある時ふとわかるものがある、という考え方というか体験というのはとても大事なことだと思う。初めて触れてみたときには、何のことか意味は分からなかっけれど、何度も触れるたびにふとそこに意味が現れてくる。味が分かる。一度やってみて面白くなかったし意味も分からなかったからこれをすることには意味はないって思ってしまうのは本当にもったいないことだと思う。読書だってはじめはとにかく本を手に取ってどんどん読み進めていくところから始めるほかはなくて、そのうち読むことの面白さというのが沸き上がってくると気づいた時には本の虜になっているというのが本好きの人たちに結構共通する体験であるんじゃないかと思う(もちろん物心ついた時から本は好きだったとか色んな人がいるだろうけれど)。レッスンでするようなからだの動きも同じで、とりあえずやってみるところから話は始まって、何が良いのかとかはやっているうちに自分でつかむしかない。と言ってもそれはつかもうとしてつかめるようなものというより、ある時ふと訪れてくると言った方が感覚としてはしっくりくるもの。その時が訪れるまで試行錯誤を繰り返しながら何度も何度もやってみること。そして良いものをつかんだと思えたときにも、「これでいい」と止めてしまわないこと。「これでいい」と言わないということは、「これは悪い」と言ってそこで辞めてしまわないことと同じことだと思う。

今日見たものが明日も同じように見えるとは限らない。今日会ってみてあんまり自分とは合わないなと思った人と別の場所であった時に意外なほどに話が弾んだなんてこともしょっちゅうある(でしょう?)。今日の自分がふがいなくても、明日の自分をあきらめなくたっていい。恥ずかしさや悔しさだけ感じて取っておけばいい。時は流れて色は移る。明日は明日の風が吹く。それくらいには世界には包容力があるし人には寛容さがある。安心して明日の世界に身を任せよう。

数日前から感じていたことだけれど、やっぱり僕は「ことば」の人なんだと、レッスンで改めて思った。こうしてブログに文章を書くのもそう。言葉にする、これが自分にとってはなくてはならない営み、作業なんだとつくづく感じる。「ことば」にする、「ことば」を話す、書く、伝えるというのが僕にとっては大切なことなのだと思う。

レッスンでからだをほぐすときには、からだに集中を注ぎ込んでいるけれど、その時に何かを感じるとやっぱりそれを言葉にしたがる自分がいるし、実際に言葉にしてみたり(頭の中で)しているし、体験が終わった後にはその体験のことを言葉にして誰かに話したい伝えたい表現したいと思うし、帰宅すればブログなりに書いて表現したいと思う。学生時代にはノートに書き綴る日もあった。今はツイッターやブログに「ことばの場所」を移しつつある。もっと人に直接ことばを伝えたいというか表現したいとも思う。なんにせよ僕は「ことば」がないと生きていけない人間のようで、それが最近分かってきて、今回のレッスンでも改めてそうだと思った。歌ったり踊ったり、演じたりしてみたいという気持ちも(けっこうしっかり)あるけれど、そういうパフォーマンスを楽しんだ後にはきっと、その体験についてとことん語りたい自分が現れるのだろうという気がする。あるいは、そういうパフォーマンスにからだを預けきって、自分というものが何らかの形で表現され切ったとき、自分が自分を生ききったときには、何かから解放されたかのように、あえて言葉を語る必要がなくなるのかもしれないとも思ったりする。それは少し遠い話だろうけれど。

 

おわり