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書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

エッセイ#1 現代語訳に抱きしめられて

古典作品の現代語訳者に選ばれた人を、権威的な存在としてどうしても見てしまう。

この人、すごい人なんだ。と。

その訳者の作品を一つも読んだことがなくて、だからその訳者の文学的なセンスや力量は全く知らなくて(べつに読んだことがあるからと言ってその人の文学的センスや力量が分かるわけではないけれど)、ただいくつかの作品のタイトルを知っていたり、その作品の評判を知っていたり、文芸誌の表紙にでかでかとその名前が映えているのを見たことがあったりするだけなのだけれど、僕でもその存在を確かに知っているような(そしてやはり読んだことのない)超有名古典作品の現代語訳者としてのあいさつ、あるいは意気込み、みたいな文章に触れると、おお、この人は何か文学的系譜とか精神とかいうものを受け継ぐ人なのであるな、などと感じ入ってしまい、かんたんにその訳者を神格化してしまう。こまった癖だ。

だれかを神格化してしまう瞬間というのはいろんな場面にあって、それは権威という言葉と簡単に結びつく。偉い人が言っていることだから正しいに違いないとか考えてしまう。思考はいとも簡単に力の方に呼び寄せられる。

現代語訳者というものが実際に神格化されまた権威的な存在であるかどうかは別として、現実にはそういう風に見てしまうことがあることを踏まえつつ、それでは元の古典作品を書いた人は、自分の作品が現代語訳化されることをどう思うのだろうかと考えてみる。

古典とされる作品は、当たり前だが書かれた当時には現代の作品であって、訳されることなくそのまま読まれていたものだ。自分の書いた作品が、誰かの言葉に置き換えられないと理解されないというのは、よくよく考えるととても悲しいことだと思う。もっとも、国や時代を超えた人に届けんがために、となると事情は変わって、それではぜひそちらの言葉に訳してくださいと言いたくなってもおかしくはない。

それでもやはり、どんな作品だって、それを書いた人は、自分の言葉で一生懸命それを書いたはずだし、そんな「自分の言葉」に対してきっと誇りを持っていることと思う。あるいは自分の言葉のどうしようもない“自分らしさ”に、嫌気がさしたり、うっとうしく思ったりすることもあるかもしれない。けれどそういう嫌悪感や違和感を感じられるのも、その言葉が「自分が書いた」言葉であるからであって、他人が書いた言葉に感じる嫌味とかとは全く違う実感がそこにはあるはずである。

どんな作品だって、それを書いた本人がどう思っていようとも、それは「その人が書いたもの」であって、「その人の言葉」で書かれているからこそ、「作者」という存在が浮かび上がり、「作者の書いたもの」としての「作品」を楽しむことができる。そんな「作品」を、別の人が別の言葉で、いやもっと言えば、別の人が「その別の人の言葉」で書き換えるという作業が、翻訳なり、現代語訳だ。

それは、なんと、暴力的なことだろう。暴力的という言葉が激しすぎるなら、別の言葉を使ってもいいが、今の僕にはそれしか思い浮かばない。ここにはある力が働いている。力を受けるのは元の「作品」であり、力を行使するのは訳者である。この構図に含まれる力関係が、もしかしたら、権威であったり、神格化という作用を、第三者である僕たちに感じさせているのだろうか。

元の作者の目線に戻ろう。僕はどうも、心のどこかで、こんな風に考えているようだ。作者にとって、自身の作品を翻訳ないし“別時代語訳”されることは、非常にうれしいことであるんじゃないか、と。では一体、自分の作品が訳されるというのは、どういうことなのだろうか。想像の範疇を越えはしないが考えてみよう。

翻訳という作業は、原典を徹底的に読むことだと言ったのは佐々木中である。ある言葉を別の言葉で置き換えるというのは、やはり暴力的なことだと思う。ある言葉は、ある言葉でしかなく、別の言葉で置き換えられるものではない。そもそも翻訳ということ自体が成立するのかという議論だってあるだろう。それでも、ある作品を、別の言葉で語り直そうとする。古典を現代語訳するなら、自分が書いた現代語訳が本当にその古典を訳したものであるのか、本当に古典に書かれていることを自分は書いているのか、実は自分が書きたいことを書いてしまっているんじゃないのか、それらを確認するために、訳者ができることというのは、どこまでもどこまでも元の古典を読み、読み、読み、そして読むことだけである。読んで読んで読んで読み切って、それでも本当に読んだのかと問う、その作業の繰り返しの中で、なんとかこれなら大丈夫かもしれないという言葉を選んで、物語を書き換え、現代の言葉で元の作品を表現するという営み。きっと翻訳というのはそのような、熾烈なほどに元の作品と向き合わねばならないものなのだと思う(というか佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』にそう書いてある。受け売りだ)。

 そんな風にして、自分の書いたものを、読まれるということ、それは、やはり、きっと、嬉しいを通り越して、現世のものとも思われぬような喜びを作者に与えるのではないだろうか。そんな風に思う。翻訳とは、書いた人以上に、その作品を“読む”ということ、しかも読むだけではなくて、その“読み”の証として、その作品を別の言葉で表現するという荒業をもやってのける。すごいことだ。そんなに熱意をもって自分の言葉を読んでくれる人がどれくらいいるのだろう。ほんとうに、ありがたいことだ。

ただ、実際、それは何度も言うように暴力的な営みであるほかない。言葉を別の言葉で置き換えるのだから。けれど、僕は、こうも思うのだ。暴力的だっていいじゃないか、と。翻訳というのは、暴力的に、作者の言葉を別のものに置き換える。その暴力的な営みは、作者に深い喜びを与える。僕がその作者なら、その暴力に、この身を預けたっていいと思うかもしれない。力の前に屈するのではなく、力を浴びて幸せを感じる。苦しいほどに締め付けられて、息が止まりそうになるほど、あなたは私のことを知りたいと思って、理解したいと思って、抱きしめてくれるのね。そんな風に思うかもしれない。愛し愛されるのではなく、ただ一方的に、無理矢理に、愛し尽くす(される)ということ。その暴力的なまでの愛情が、翻訳という営みにあるとしたら、訳者が行使する暴力というのは、自身の権威を振りかざしたものではなく、むしろ原作者に対して献上される愛情が、人を愛するということのどうしようもない理不尽さのために、そのような形で現れてしまったものだとみることができる。

別に、そこに暴力があるからと言って、またその暴力的な営みがある一定の評価を得ているからと言って、暴力的な振る舞いが許されるだけの権威を彼彼女は持っているということにはならない。暴力(的)というのは、ある営みが持ちうる一つの性質であって、それ自体が目的であったり道具であったりするものでは必ずしもないということだ。権力(的構造)につながらない暴力(的営み)が、ここにあるのかもしれない。

 

ちなみに、僕が「古典作品の現代語訳者に選ばれた人を、権威的な存在としてどうしても見てしまう」のはなぜなのかは、謎のままである。ただの嫉妬?

 

おわり。