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書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

就活日記⑦ 社会人-1年目

就活日記

 

 社会や世間は、「等身大のあなた」なんか、必要としていないのである。

 あなたがミスする。あなたが度忘れする。あなたが失敗する。あなたが愚かしい過ちを犯す。あなたがあるものと別のものを取り違える。

 それが、あなたの本当の実力だ。

 もっと積極的にいうなら、それが、あなたの「個性」だ。

 しかし、社会や世間は、口では「個性」をほめるのに、実際に、あなたが、こんなふうに「個性」的にふるまうと、さっさと不合格にしてしまうのである。

 社会や世間が、合格にするのは、「等身大のあなた」ではない。「訂正」が入り、参考資料で確認済みの「あなた」だ。比喩的に言うと、二倍(よりもずっとかも)大きくなったあなただ。

 

『ぼくらの文章教室』高橋源一郎 p70

 

 

 はっとした。

 僕はエントリーシートや面接、ひいては説明会での質疑応答の場において、「等身大」の自分でいることを心掛けていた。就活というのが社会の中にあるシステムの一つであるとしても、そこにいるのは実際に生きている「人」であることは間違いない。具体的に生きている人が、ひとつの人生を生きている人が、仕事を、就職先を探している。だからその場で交わされる言葉というのは、少なくとも自分が発する言葉については、自分にとって具体的で、生々しく、切実で、等身大の言葉であるべきだと考えていた。そうでなければ、言葉を発する意味がないと思っていた。就活用の言葉づかいで、就活用の質問をし、就活用の自己表現の言葉を発したとして、それはその人の人生にとってどのような意味を持つのだろうか?それはせいぜい就職活動で内定を勝ち取るという、極めて限定的な、もっと言えば閉鎖的な言葉遣いであるだろう。そのような言葉を使って就活を乗り切ろうとすること、就活で成功を収めようとすること、それ自体を僕が否定する理由はないけれど、僕自身もそのような言葉を使わなければならない理由もないはずだ。僕は僕自身の人生を生き切るために、僕自身にとって真に切実な言葉を使いたい。そのような言葉を使って、就活というものをして、結果として迎え入れてくれる会社に籍を置いて精一杯働こう。そのように考えて、説明会や面接では、自分にとって切実で重要な問いを投げかけ、自分にとって意味のあると感じられる言葉を発しようとしていた(もちろん、表現の仕方としては、相手に分かるように言語化してということになるのだけれど)。

 けれど、違う、違うんだ。僕が等身大の僕でいる事、それ自体は別に批判されることでもなんでもないかもしれないけれど、”社会は”それを望んでいない、”会社は”それを望んでいないんだ。僕がどのように生きるかは僕の勝手だが、それが例えば「等身大」の生き方であるならば、”社会は”そんな僕を望んではいないということだ。いくら僕が、等身大で純粋な自分を、ストレートに具体的に、あるいは芸術的なくらいに、的確に、分かりやすく、共感を持ちやすく表現できたとしても、そのような表現方法をとる人間を”社会は”求めていないのである。僕が等身大で純粋な自分というものを追い求めるのは構わない。しかしそれを社会や世間は求めていない。社会や世間が評価するのは、僕が表現する僕自身の等身大さや純粋さなのではないし、そのように無駄をそぎ落として自己表現した時に垣間見える情熱や信念のたくましさや鋭さなのではない。社会用、世間用に洗礼された、つまり社会化された「あなた」、社会のコードに従って表現された「あなた」、社会が要請するような形式において正確さと確実さをもち、かつその形式に則ったかたちでの知識と意欲と能力とがあることを保証するような「あなた」なのである。

 そう考えると僕は、社会とは全く逆の方を向いて就活をしていたということになる。そりゃあ面接も落ちるだろう。事前にコメントを準備せず、その時自分の口から出る「生で」「等身大の」言葉を信頼していたのだから、社会のコードなんてあったもんじゃない。僕の言葉は面接官から見ると、ピュアで、純粋で、つまり洗礼されていない若者の幼稚な言葉遣いに見えたことだろう。たとえそれが、どれだけ野心的で、どれだけ真面目で、どれだけ真剣に、どれだけ深く、社会や人の事について考えていたとしても、社会の側にいる人にとっては所詮、青臭い未熟な言葉でしかなかったことだろう。それは、私は社会の一員ではありませんと、あるいは私は社会の一員になろうとはしていませんと宣言しているようなものだ。そんな僕にも(今のところ)ひとつだけ、選考が進んでいる企業があるのだけれど、そこは「大人のコードは入社後身につければいい」という考え方をしていると人事部長から伺ったことがあることを思い出した。なるほど納得がいく話だ。

 そうやって、社会とは逆の方向を向いて、自分を受け入れてくれる会社を求めていた。いや、自分が受け入れてくれる「何か」、すなわち(等身大の)自分が受け入れられるという「経験」を僕は求めていたのかもしれない。就職活動をしている学生のことを、社会人0年目と言うとすれば、僕は-1年目のところにいたということになるだろうか。でもまあいい、いや、よくはない、全くもってよくはないのだが、終わったことはしょうがないから、この-1年の座標点に留まらないように、あるいは-2年目になる前に、舵を切って、立派な0年生としてやっていかなきゃならない。というか、やらなきゃどうにもならないんだけれど。就活。あるいは、社会人生活。