書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

就活日記② ある人事局長の話(1)

 かなり前(3月9日)のことになるが、この日僕は前日に続いて大学の就活イベントに来ていた。


 前日、何人かの人事担当に「既卒、それも浪人に留年を重ねているけれど、それは採用にどのくらい影響するか?」を訪ねて回った。どこの誰も「問題ない」というけれど、そんなはずはないと思う自分がまだ残っていて、どうにも踏ん切りをつけられずにいた。これを解消するのがこの日テーマの一つのである。

 ただ、前日の説明会の中で、こんな話も伺っていた。「就職すると、他の企業や別の職種の人たちと関わる機会がぐっと少なくなる。自然と自分たちが関わる仕事のことしか情報が入ってこない。就活の合同説明会は沢山の企業や会社員と出会えるいいチャンス。色んな業界の話を聞いておくことは、たとえそれが浅い知識止まりであっても、引き出しを増やすことにつながるから、できるだけ多くの企業の話を聞いておくといい」。とても親切に話してくれたのは、前日とくに気に入った企業の女性社員だった。このことがあったので、特別興味のない企業でもひとつの勉強だと思って話を聞いて回ろうと考えていた。

 しかしこの試みはすぐに挫折する。そのような姿勢で話を聞くのは思いのほか退屈で、むしろ意味のない時間のように感じられたからだ。考えてみれば、勉強のために話を聞くというのは、興味もないのに実利的な利益を見越して話を聞くという事である。しかし僕はそのような実利志向の人間ではなかったし、少なくともそのような動機で行う行動には身が入らない質なのだった。だから最初に地方商社(IT関連のある部品の取り扱いでは業界シェア1位を誇る優良企業だ)の話を聞いた時、僕の魂は徐々にひからびていき、担当社員の話が長いこともあってエネルギーがどんどん失われてしまった。活力が何かに吸い取られ、抜け殻だけが周囲の就活生の雰囲気にだけ合わせて動いていた。結局次の企業である学習塾の説明も全く頭に入らなかった。


 そんなスタートだったけれど、良いこともあった。この日の収穫は、とある放送局の人事局長と長時間立ち話ができたことだ。自社内にラジオ局を持つその放送局は、在京ではないものの世界各国へアナウンサーを送り多くの特集や中継を行っていて、地元では厚く信頼されている。僕自身の大学生活にも少なからぬ影響を与えているし、メディアという業界にも興味があったので、まずはいつも通りブースの席には座らずに、学生たちを後ろから見守るようにして佇む風格漂うおじさん=その局長に声をかけた。目が合ったので自然と会話の流れになったと言った方が良いかもしれない。

 はじめ、何の話をしたのか覚えていない。確か「テレビ局って・・・狭き門って感じがします。倍率高いというか。」みたいな、箸にも棒にもかからないような質問だったと思う。というか僕から話しかけたのではなく、話しかけないとなんとなくまずいような空気になったために口にした言葉だったから、実際なんの内容もないものだった。。この質問を真面目顔で、何か重要な情報を聞き出そうとする記者のような勢いでしていれば、それこそ何にもかからなかったかもしれない。しかし逆になんとなく間を埋め合わせるような、頼りなさげな物言いをしたことで、相手もそれなりの返答を返してくれたのだと思う(たぶん)。意識的にそうしたわけではないし、おすすめは全くできないやり方であるけれど。

 そのまま人事局長としばらく会話をした。僕が出版社でお手伝いをしている話をして、その出版社で本を出している作家の話をして、するとその作家が出ているラジオ番組の話をされたので、そのラジオ番組の公開収録に昨年運よく当選して参加したと話すと、偶然その収録を人事局長も観覧していたということだった。その番組は一部の変わり者に人気の番組で、実は放送局内でも10人くらいの人しか関わってないらしい(社員数は600~700名)。その後しばらくラジオ番組の話で盛り上がり、あるところからするすると就活の話題に切り替わっていった。


 この人事局長から伺った就活にまつわる話は、就活生にとって非常に有益なものだ。


 僕と人事局長の話はわりと盛り上がった。就活の説明会で人事の人と、就活とは関係ない話題で盛り上がったところで、相手に(趣味が合う、といった意味で)好印象を与えこそすれ、逆に就活に真面目ではないと思われるのではないか、と考える人がいるかもしれない。確かにそうである場合があるだろうし、僕のことを不真面目なやつだと言って切り捨てる企業もあるだろう。しかしこの人事局長は違った。

 人事局長いわく、就活生のコミュニケーション力を見るとかいうのは、論理的に話せるかとかももちろん重要(脈略のない話しかしない人物を迎え入れたいと思う会社などないだろう)ではあるが、ここでの「コミュニケーション」というのはそういった言語運用能力というより、そのコミュニケーションを取っている姿と仕事をしている姿が重なるかどうかが重要である、ということだそうだ。

 「話をしていて、『あ、こいつにはこの仕事を任せられるな』、『こいつにこの仕事を与えたらやってくれるな』って思うかどうかが重要やねえ。仕事してる姿が見えるというか。こいつに頼めばこれをしてくれる、これができるやろう、というのを感じるというのがね。もちろん、そういうことを意識しつつ面接するし、こういう立ち話の時でもそれはね。」

 ここでの「仕事ができる」というのは、能力の多寡のことではない。人事局長は目の前にいる人物が、ある仕事をする人物であるように見えるか、あるいはある仕事を任せたときにそれをしっかりする人物であるように見えるか、を見ている。そのような仕事をする姿を見ることができるか、を見ているのである。彼は「できる」「できない」という言葉を使わなかった。能力的な問題はおそらく、そういった姿が想像できない人として人事局長の目に映るのだろう。しかしそれはやはり、能力を見ているのではなく、就活生その人を見ることから感じ取っている。

 例えば人事局長は僕に向って、「(話が一通り盛り上がったのをうけて)このまま一緒にどっか喫茶店でも行って、企画会議しましょか、って気になった」と言ってくださった。放送局というメディアでは企画会議は重要な仕事の一つだ。つまり人事局長は僕の姿に「企画会議に出ている姿」を見てくださったという事だ。しかし僕は、人事局長と話すなかで、一つの企画を提案することもしていないし、企画を立ててそれが現実になったエピソードを話したわけでもない。そのような意味ではアピールをしていない。そこにはただ、人事局長の目に映るものとして、企画会議をする姿をイメージできるような僕がいた、ということだ。


 能力、という言葉は曖昧で、現代人はついついそれを数値化し順序付けできるようなものとして捉えているのではないかと思う(僕もある部分ではそうだ)。能力は競いあえるものであり、優劣があり、強弱があり、といった具合に。しかし人事局長はそのような能力で就活生を判断しているようには見えなかった。

 逆に言えば、いくら自分をアピールしてみたところで、面接官に「(僕たちが)仕事をしている姿」を喚起させることができなければ意味がないという事である。そのようなアピールは肥大した自我を見せつけるようなものになってしまうに違いない。もちろん、たとえそれが見苦しいものであれ、その就活生に何らかの「仕事をしているイメージ」を抱くことはあるだろう。一般論として、エゴが強いことがすなわ不採用を意味しているというわけではないし、そのエゴの陰あるいは裏に何かしらポジティブな要素を発見することもあるだろうからである。しかしこれはアピールの戦略としては完全に失敗している。なぜならこの就活生の(彼自身が意識する意味での)「努力」は、彼が仕事をしている姿を採用担当者にイメージさせることを達成できていないからだ。

 面接官や人事担当に「自分が仕事をしている姿のイメージ」を自然に抱いてもらうことが採用へ直結しているとすれば、就活の面接において就活生に求められているのは、自身の能力を展開することではなく、そのような「イメージ」を抱くことができるような材料を企業側に提示することである、と言うことができるだろう。そしてそれは自己評価ではなく自己表現であるはずである。つまり、就活生がするべきなのは、自分が自分をどう思っているかや、自分はどのように捉えることができる人間であるか(例えばあるエピソードを持ち出して、「…私には逆境をバネにする力があります」と言う、など)といった「自分に対するポジティブな自己評価」を面接官に伝えることではなく、自分は何が好きで、どんあ習慣があり、何をしたことがあり、どのような時にどのような思考をして行動をとるか、という”事実”を淡々と伝えることであるだろう。

 その事実の羅列は、就活生にとっては面白味がなくて、アピールしている気にはなれない、価値のないスピーチに感じられるかもしれない。しかし面接官たちが求めているのは、就活生からのアピールではなく、就活生それぞれがどんな人物かを知るための材料である。「この人はどんな仕事をするだろうか、どんな仕事なら任せられるだろうか」を判断するための材料である。就活生がアピールするべきことがあるとすれば、それはなぜこの企業を選んだのか、この仕事をしたいと思うのかという「動機」の部分であって、つまり企業や仕事への「思い」の部分であって、就活生自身の「能力」のことではない。能力なんてものは企業側が、少なくとも社会や周囲の人が判断するものである。自分の能力が他者にとってどれ程のものなのか自分で判断したり決めたりることはできない(神でもない限り)。

 さらに言えば人事局長の話からすると、実はそれは、つまり能力と言う言葉で言い表せられる類のものは、就職活動において特別重要なことではない。もちろん大企業などを受けたときに、記述試験や学歴で足切りされることはあるだろう。けれどもそれは僕からすると、ジャニーズ事務所へ入ろうと思ってもそれは容姿的に(明らかに)無理だというようなことと同じで、つまりそれは人生におけるある種の運であり、縁であって、自分がコントロールできることではなく、すなわちいちいち悩んでいるような問題ではない(全国の若者がジャニーズ事務所に入れないことに悩んでいても相手にされないのに、就活で大企業に相手にされないことに悩むことは受け入れられているのはなぜだろう?)。

 僕はもういい年になているので、自分がイケメンでないがゆえにイケメンが享受する様々な恩恵を受けられないことに対して全く執着することはない…とは言い切れないにしても、その嫉妬や不公平感からはそれなりに克服したつもりである。というかそもそもそんなことに執着してない人の方が穏やかで自分らしい人生を送っているだろうことはたやすく想像できる(それが多数派でないにしても)。つまりより充実した生活を送っているだろうということだ。できることなら僕も、せっかくイケメンに生まれることができなかったので、そのような充実した人生を歩みたいと思う(イケメンである人がそのような充実した人生を歩めないという訳では決してありません)。ならば就活においても、同じような仕方で振る舞うことができるのではないだろうか。他人と比べた自分ではなく、自分が自分として生きるということを軸に置いて主就職活動をすることができるのではないだろうか。そしてそのような姿勢で説明会や面接に赴いた時に、その姿に仕事をしているイメージを抱く会社があれば、その会社が自分という人間と合った会社だという事ができるのではないだろうか。あるいはこれは僕自身の個人的な希望であり期待であるのかもしれない。でも僕はやっぱりそんな風にして就活というものを生き切ってみたいと思う。

 人事局長の話からだいぶそれてしまったが、僕の話は別にいいので人事局長がおっしゃっていた話は参考にして就活に励んでいただければよいかと思う。人事局長からはほかにもいい話を伺ったので、それはまた次回お伝えしたい。