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書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

就活日記①

 今日は学内の合同説明会に参加した。

 今日の目標は、既卒生である僕が、企業の目にどのように映るかを確認することであった。大学内のキャリアサポートルームで就職相談をした際には、もちろん新卒と対等ではないにしても、それを理由に気後れしたり後ろめたさを感じる必要はないと言われていたけれど、不安な気持ちが残るのなら説明会で直接聞いてみてはどうかとも勧められていたので、それを実行に移すことにした。

 僕はこの3月に大学を卒業する予定の男子学生である。

 まず、あるメガバンクのブースに赴いた。といってもそこが入口すぐのところにあったからで、特に興味がある業種と言うわけではない。ブースでは40代半ばくらいの男性社員が6,7名の学生に企業の説明をしている。その手前で資料を手に学生に声をかける若手社員の男性に声をかけた。
 結論を先に言うと、年齢を理由に断ることはないという事だった。というかどの企業のどの社員に声をかけても、返答はおおむね同じようなものだった。既卒も新卒と同じように(第二新卒、という呼び方をするにせよ)扱います、年齢よりもコミュニケーション能力や経験ややる気や人柄で判断します、20代後半で入社した社員もいます(このケースは3件ほどあったが、みな院卒であった。僕は学部卒である)、といった具合にだ。少し頭を働かせれば、合同説明会で「ああ・・・その年ならうちは取りませんねえ」なんて言うはずがなく、尋ね方が安直すぎたと今は反省している。採用の方針として年齢で切り捨てるようなことをしていないという事と、実際の採用活動の中で年増の学生が最終判断の局面で新卒と同等の扱いを受けることとは同値ではない。どちらか一人を選べとなって、なら若い方をと、なるのは自然な選択であるように思われる。それは仕方がないとしても、採用活動の経過においてこの年齢であることは、少なからぬ影響を及ぼすことになるだろう。その曖昧な、もしかすると無意識の判断基準を上手く引き出すことができなかった。

 メガバンクから離れて後、いくつかの企業の社員と同じような話をしたが、やはり同じような答えしか返ってこないので、この課題はいったん棚に上げて、ブースで企業の説明を聞くことにした。合同説明会には30社ほどの企業が参加していたが、この数は案外少なく、簡単に会場を一周できてしまうので、どこにも座らずにいると同じ社員と何度も顔を合わすことになる。要するに気まずくなってしまうのでとりあえずどこかに座って話を聞こうという気持ちになったのだった。あるいはそれは会場側の作戦なのかもしれない。
 最初に、例のメガバンクのブースで説明を受けることに。ほかに特に気に入った企業が無かったからというのも一つの理由だけれど、これはむしろ義理であった。社員の方と20分ほども話をさせてもらっているのに(しかも途中から小柄だがすらっとした明るくきれいな女性社員も加わっていた)、ブースで会社の説明をきちんと聞かずに何度も前を通り過ぎていくことはできない。その無駄な良心が社会に出たときに何らかの恩恵をもたらすことを期待しつつ、あまり好きではない業種にいささかの居心地の悪さを感じながら、若手男性社員の説明の半分くらいに耳を傾けた。案件の規模の大きさ、多様な業種間の異動の幅広さ、グローバルな視点、整備された教育システムなどをアピールされていた。銀行と言うと、実体があるのかないのか良く分からない数字ばかり扱っているイメージを持って(しまって)いたけれど、実際にある企業や事業を支える融資といった業務内容を見ると、(当たり前だが)実体が全くないわけではないのだと実感した。説明が終わった後、また社員の方と少しお話をした。
 次に、コンサルティング会社のような会社の説明を受けた。いや、実際は入社一年目の同い年の女性社員と20分ほど話をしたのだったが、スライドを見ながらよりも生の情報が得られるというのが、去年3か月ほどでやめてしまった就活で得た一つの教訓である。この女性社員は非常に頭が良く、実直さをもって物事に取り組んでいるような印象を受けた。一方でとこか緊張感を――それは身が引き締まるというよりも何かに締め付けられているような、窮屈で神経をすり減らすような緊張感を帯びているようなところがあり、それが実直さをさらに際立たせていた。とにかく考えることが業務において最も求められると言っていた通り、僕の質問ひとつひとつに(彼女は熟考をするタイプではなかったが)よく考えて答えてくれていた。非常に好印象であったので、のちにブラック企業として評判であることを知っった時にはひどくショックを受けた。あるいは彼女がまとっていた神経質的な緊張感は、ブラック企業という言葉を聞いてからあとにそう思っただけなのかもしれない。ただメガバンクのきれいなお姉さんにあった前向きな明るさというのは確かにそこには感じられなかった。

 心に大きな黒い塊を抱えた僕は、しばらく歩いてまたそのメガバンクのところへたどり着いた(なにせ会場は広くない)。そしてまた20分ほど会話した。わりと立ち入った話をしたと思う。例えば、入社後にあるコースを選び取ると、入社してから10年弱はある専門分野に特化した教育を受けることになるのだが、実際のところ10年も経てば社会情勢や規制や他社との力関係が変わってしまうのではないか、そうなるとこの教育プログラムはうまく機能しないのではないか、といった質問をした。それは質問というより、銀行という業種における時間感覚を知りたいという単なる好奇心であったのだが、丁寧に回答してくださったのはありがたかった。そして納得もした。他にもいくつかの質問をし、それぞれにもっともらしい回答をもらった。不意に就活を励まされたりもした。そして社員さんと仲良くなった。仲良くなりすぎてしまったと少し後悔している(おそらく個別の説明会に行くことはないだろうから)。

 次に、どこかで誰かと何かを話したあとで、ある”研究所”のブースで説明を聞いた。その”研究所”の出版部門に興味があったのだが、それ以外の部門の理念や活動内容が僕には全く合わない類のものだったので残念だった。地元に本社があるだけに惜しい。ここでは40代後半くらいの男性社員と、30代過ぎくらいの女性社員がいたが、どこか覇気がなく、ぼんやりと暗く、何かが肩にのしかかっているような気重さがあった。洗練されていないプロフェッショナルといった感じだった(もちろん実際の業務ではプロフェッショナルなのだろうけれど)。そんなわけでどこか残念な気分になってそのブースを後にした。というかその企業は、浪人や留年で年を重ねている場合、それが2年までであるなら採用を受け付けます(既卒の場合は、それを合わせて3年)ということだったので、初めから僕には門戸が閉ざされていたのだった。

 次にベンチャーのIT系企業の話を聞いた。ここではいい話を聞いた。別の機会に書きたいと思う。

 最後に印刷会社の説明を受けた。ここがとても良かった。まず社員3名(40代後半くらいの男性一人と20代半ば~後半くらいの女性二人)の体が柔らかい。いや別にそこでストレッチをしていたとかいうのではないのだが、コンサルティング会社のような会社の女性社員や、”研究所”の社員たちにあるような、何かに縛られているような堅苦しさがそこにはなかった。社員さんの雰囲気が明るく溌剌としているというではないけれど、そこには明るさは確かにあって、積極的という程ではないにしても、いつでも飛び出せるだけの自由度があるような感じだった。今日初めてのメーカーだったことがその印象を強くしたのかもしれない。ものを作ってそれを売る仕事をしているだけあって、その「もの」への思い入れが強く感じられたし、そこにある種の体温を感じ取っていたのかもしれない。何より社員の方々から、仕事を楽しんでいるような雰囲気を感じられた。楽しくてしょうがない、程のことではないにしても、日々の労力を注ぎ込めるだけの実物がそこにあることが、彼彼女らの前向きな力強さにつながっているのかもしれないと思った。もちろんそれは社風であったり、社内の風通しのよさでもあったりするのかもしれないし、印刷というメジャーではない部門だからこそ湧き出る愛着のようなものもあるかもしれない。とにかくそこには人のあたたかみが確かに感じられた。


 実際のところ、働くことが嫌だ、という学生は少ないと思う。しかし、「この企業に入って、この企業の”働く人”になるのは嫌だなあ」と感じる学生も多いと思う。説明会でいくつかの企業を回ってみると、それぞれの企業で異なった”人”がいることに気づく。いやそれは当たりまえやろ同じ人がいるわけないやんというのは確かにそうなのだが、そうではなくて、そこにはそれぞれの会社に”染まった人”がいるのである。あるいはそれは業界という枠組みによっても規定されるものなのかもしれない。とにかくそこには、何かに染まった人がいる。その業界、その会社で働くことで、そのように染まった”働く人”がいるのである。
 そしてそれは、おそらく、多くの場合、”染まった”というより”染められた”ものであるように感じられる。つまり自分から染まりに行くというよりも、会社によって染められるということである。ただ一般論として、自分から何かに染まるというのは多いことではないだろうから、大抵みんな染められているという事になるかもしれない。しかし僕が強く感じるのは、僕の目に映る”働く人”たちは、働くことに対する信条や姿勢や価値観といった、本来その人個人が個人として育んでいるはずの、その人自身の信念というものが、会社によって染められたものとしての信条や理念に塗り固められているのではないかということだ。もちろんこれは全ての職業人に当てはまるわけでは決してない。決してないのだけれど、少なくないのも事実だと思う。
 恐ろしいのは、どのような信条や信念を(それが”染められた”ものであるにせよ)持っているとしても、本人にとってはそれがその人にとっての信条であり信念である、という事である。僕がどれだけそこに違和感を感じようとも、それがまさに現実である世界を生きる人がいる。それが全てであるような人生を今まさに生きている人がいる。そしてその人の人生も、もちろん、僕やそのほかの人と同じ一つの人生なのである。もしその人の人生が、仮に、何か暗黒のような(いわゆるブラック)企業にいることで不穏な色に染められてしまっているとして、それがその外にいる人から見たら明らかにストレスや緊張感を生み出してしまうものであるとしても、その人がたった一度きりのかけがえのない人生をそのような信条や信念を持って歩んでいることは、動かしがたい事実である。それはその人にとっては、まぎれもなく現実であり、そしてその人の人生そのものなのである。ひとつの、一度きりの、ある人生が、そのようなものとしてそこにある、という事実を目の当たりにしたとき、その現実の重さに耐える自信が正直僕にはない。耐えられるほど僕は強くないし、かといって他人事だと切り捨てて目を逸らすには、それは重すぎる現実として僕の目の前に横たわっている。

 このような考えが、僕の思い上がりである、という指摘もあるだろう。お前は何様だ、と。確かに僕は僕で、ある偏った見解を持つ一人の人間でしかない。しかしだからと言って、僕が感じているものが無意味である、価値がない、間違っている、正しくない、という批判は、その批判それ自体が同じ浅さにおいてなされていることは指摘できると思う。つまりここで求められるのは、「人が生きるとはどういうことか」という問いへの徹底したまなざしであるということだ。

 ある仕事に就く。そこで何らかの人格が形成されることになるのだろう。それは事実そうであるとして、何かの道を選ぶことで何かの人格が形成されるとはどういうことなのだろう?それは自分なのだろうか、いや、正確に言うと、その人格と自分との関係はどのようなものなのだろうか?あるいはより実践的に言えば、その人格と自分との関係を良好なものにするためには何が必要となるのだろうか?

 就活は、様々な企業の、多くの大人に出合う機会としてまたとないものである。そこには様々な、人が、人格があるだろう。”働く人”もいるだろう。その圧倒的な事実、恐ろしさを感じずにはいられない現実を、まずはじっくり、まじまじとまなざしたい。なぜまなざしを向けるのかというと、それは実は目を逸らすことな時間をかけてまなざすことでしか消化することのできないものであるのかもしれないと感じられるからである。そのようにして、社会人として働くということの裏側あるいは根底にある、社会人として生きること、生きていることについて何かを感じ得ることができればと思っている。あるいは、そのような人格、あるいは人、つまり「人が生きるとはどういうことか?」というのをまざなすことを仕事とするという手もあるだろうし、それが自分にとって最も自らの人生を傾けることができる仕事であるのかもしれない。もちろん、僕が”働く人”にはならないことが前提としてあるのだけれど。