書くことからはじめてみよう。

言葉にすることで、何かが変わるかもしれない。

thee朗読編・第一回公演「父と暮せば」ー感想ー

明大前駅のすぐそばにある「キッド・アイラック・アート・ホール」にて、井上ひさし作「父と暮せば」の朗読会を観に行ってきました。

theeは、長野市の市民演劇ユニットで、今回の「父と暮らせば」はその朗読講演の第一回公演だそう。今回僕は出演者のミズタマリさんとご縁があって、この公演に誘っていただきました。

今回の朗読会は、「キッド・アイラック・アート・ホール」という52年間(!)もの間、演劇や音楽と共にあった劇場が今年いっぱいで閉館してしまうことがきっかけで開催されることになったそうです。そのあたりの経緯については、初めてここを訪れた僕が聞いても感慨深いお話が色々とありましたが、それについては別の方の筆に任せたいと思います。

 

父と暮せば」は、原爆投下後の広島が舞台の、娘と父との二人劇。23歳の主人公・美津江とその父・竹蔵との会話のみで舞台は進んでいきます。

あるとき、図書館で働く美津江のもとに、原爆について調査をしているという青年・木下が現れる。どうやら木下は美津江に好意を抱いているようだ。木下からもらった饅頭は無事かと美津江に尋ねる竹蔵は、二人の恋を成就させるために自分は現れたのだと話し出す。彼は先の原爆で命を落とし、幻となって美津江の前に現れていたのである。

しかし、丁寧に好意を伝える木下のことを、美津江は「ただの利用者だから」と言って譲らない。年頃の青年のアプローチだぞと、美津江に結婚を意識させようとする竹蔵の言葉にも、「私は人を好きになることを自分で自分に禁じたの」などと言いいながら、美津江は父を冷たくあしらうのであった。だが、その美津江は木下の好意に気づかないのでも、また木下宛に手紙を書こうとする自分自身のなかにある木下への好意に気づかないのでもなかった。それは美津江の中にある、幸せになってはいけないという自意識がそうさせていたのであった。

美津江は自分が被爆地の広島で「生き残ってしまった」ことに罪悪感を抱えていたのだ。

原爆投下時の経験とその記憶から、木下に対してつれない行動を選び取ってしまう美津江であったが、ある日、木下が収集した「原爆によって顔の溶けた地蔵」を見たとき、美津江の心に「ある記憶」が痛烈に思い出される。その記憶は、原爆投下時の父・竹蔵とのやり取りであった。そしてその記憶が、竹蔵と美津江との“最後の会話”を導くことになり、そして美津江は、…

 

美津江と竹蔵のやり取りは、親密なようでいて、どこかぎこちなくもあったように思います。それは何か不思議な感覚でした。人間と幻との会話だったからでしょうか。あるいは、不幸な形で生き別れた親子であったからなのでしょうか。そんな二人のやり取りは、うまく言葉にならない代わりに、僕の中にずーっと残って、帰りの電車の中でも、家に帰ってからも、漠然と二人のことを考えるでもなく考えていました。

 だから、朗読会が終わった時、僕はいつになくボーっとしていたのですが、そんな自分がいることに自分で少し驚きました。いつもこういうイベントの時には、イベントの感想をアンケート用紙に張り切って書いたりするものですが、今日に限っては何を書いていいか全くわかりません。それでしばらく、ふーむふーむと、何を思うでもなく考えていたら、ふと祖母のことに思いが到りました。

 

3年前に亡くなった僕の母方の祖母は、広島出身で、被爆者でした。

確か当時14歳で、2,3歳年下の弟がいました。その日は祖母は体調を崩したか何かで学校を休み、弟だけが学校へ行き、自身は家にいたそうです。(ただ、どこかで祖母が「その日は喫茶店でアルバイトをしていて店先にいたから学校に行かなかった」という話をしていたような記憶もあって、ちょっとそのあたり曖昧です)

そして、その時が来ました。家にいた祖母は軽い被爆で助かりましたが、学校へ行っていた弟は亡くなってしまいました。同じく学校へ行っていた祖母の同級生も、その多くが亡くなってしまったそうです。

その時のことを祖母と話したのは、あまり多くはなくて、それも僕が小学生くらいの時まででした。思春期に入ってからは、落ち着いて会話をすること自体が少なくなり、その時期を通り越した時にはもう、という感じです。それでも祖母が話してくれた、「川沿いの道を歩いていたら、ああ、あそこに○○ちゃんが亡くなってる、○○ちゃんもお父さんお母さんと一緒に亡くなってる、…」という話には、そんな残酷で悲劇的な出来事があったのかと衝撃を受けた覚えがあります。

 

そんな祖母の話をいくつか覚えていますが、思い返してみると、祖母の口から「自分が生き残ってしまったことへの思い」を聞いたことはありませんでした。それは、そういう話を祖母がしたくなかったからなのかもしれないし、あるいは僕がそういう話を身に引き受けて考えたりする程には成熟していなかったために、ただ記憶からなくなってしまっているのかもしれません。

けれど、今回の朗読を聞いて、僕は「自分が生き残ってしまった、ということを考えずにはいられない」祖母の姿を考えずにはいられませんでした。「生き残ってしまった」ことへの戸惑いや葛藤が、戦争を生き残った人たちが心に抱える「避けられない生の実感」のひとつであるということは、文学やノンフィクションを通じて少しずつ触れつつありましたが、それを自身の祖母の身にもあったものとして考えてみるのは初めてのことでした。

そして、祖母の抱えるその葛藤や戸惑いに思いをはせてみることは、僕にとってはとてつもなく難しいことであるように感じました。それは、例えば今読んでいる大岡昇平の「捉まるまで」「サンホセ野戦病院」(『日本文学全集 18 大岡昇平』河出書房)を読んでいる時に、大岡の心情をくみ取ってみようとするのとは全く別の作業であるようです。

僕にとって祖母は、当たり前かもしれませんが、「戦争を経験したある人物」以上の存在のようです。その心情や感情は、自分でくみ取ってみようとするにはあまりにも遠く離れていて、全くの個人的なものであるように感じられます。いや、そもそも、誰の経験だって同じように個人的なものであって、容易に触れられるものではありませんが、それでも安易な共感や想像を許さない何かが、祖母の思いに思いをはせるときには感じられるのでした。

 

なぜか分からないのですが、今回の朗読のクライマックスのシーンを僕はあまり覚えていません。いや、朗読全体についても、その世界に自分もいたはずなのに、思い起こそうとするとなんだかもやがかかったようになるのです。朗読を聞いている間は、出演者の二人が手に持つ台本の残りページが薄くなっていくのを眺めながら、物語がすーっと終焉に向かっていくその流れに身を任せていたのですが、最後の最後の竹蔵と美津江のやり取りや、その時の美津江の姿などを、あまりうまく思い出すことができません。だから、朗読の感想というより、祖母の話になってしまいました、、、

なんだか、自分としては、歯切れの悪い感想になりましたが、そういうこともあったのだという記録のつもりで書いてみました。

できることなら、もう一度、聴いてみたいです。

 

一時間を超える長い演目でしたが、ミズタマリさん、萩原興洋さん共に、休みなく朗々と朗読されていました。お二人とも、お疲れ様でした。

 

おわり